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櫻井錠二の受けた教育と恩師    
(1864〜1869)元治元年〜明治2年(数え7〜12歳) 金沢
寺子屋式の読書・習字・漢書の素読・剣道
習字=小堀久内、国語・漢字=豊島安三郎、平木安兵衛、剣道=南保虎之助の諸氏に就く
(1870)明治3年(13歳) 金沢・能登七尾
藩立英語学校「致遠館」にて普通学科の外、英語を三宅復一(後の医学博士三宅秀)及び岡田一六・算術の初歩を学ぶ                                                    
藩命にて寄宿制の「語学所」へ留学・英人オズボーンから直接英語教授を約7ヶ月間受ける
(1871〜1875)明治4年〜8年(数え14〜18歳) 東京
4月・母と上京 5月・英語主体の入学試験で大学南校に合格。(明治6年)開成学校と改称、校舎は神田一ツ橋(現学士会館)にあった。後に東京開成学校と改称する。級友は全国各藩からの更進生として選抜された秀才で殆どが16歳から22歳の年長者ばかりであった。競争して勉学に励む機会を与えられたことは非常に幸運であった。「英八の組」に入学後、1年3ヶ月で「英三の組」に進級した。英の部以外に仏の部・独の部 があったが、英の部が一番学生数が多かった。学生は勉学努力の精神に富み、将来必ず国家のために尽す気概は大変旺盛であった。
開成学校の修業年限は予科1年、本科3年である。入学当初は外国語のみであったが、算術、地理、歴史、修身、代数、幾何、窮理学、化学、動植物学等が加わった。その教育程度は昭和10年頃の高等小学校から中学1年位のもであったが教師は全員外国人で講義は勿論外国語、教科書も参考書も筆記も外国語で行われた。本科は1年・2年とは言わず下級・中級・上級と言った。専門学科は法学・化学・工学の三科が設けられ諸芸学・鉱山学があって、諸芸学は仏の部のために、鉱山学は独の部のために設置。学生の選択に任された。化学科の課程は無機化学・有機化学・製造化学・冶金学・化学史の講義があり、実習としては一般化学実験・定性分析・定量分析及び試金があり、本科3年目の上級で各学生はそれぞれ問題を与えられ、実験的研究をし、その結果を卒業論文として必ず提出することになっていた。化学科の教師は若き英人アトキンソンが精力的に一人で全部担当し、正木退蔵氏が助手として化学実験や定性定量分析等の世話をしておられた。同級生には久原躬弦杉浦重剛・高須碌郎・南部球吾・西村貞・松井直吉・長谷川芳之助・宮崎道正計9名である。
(1876〜1881)明治9年〜14年(数え19歳〜24歳) ロンドン
海外留学の経緯
明治2年頃から5年頃に政府、その他の方面から留学又は視察の為、海外に派遣された者は相当多数あった様である。しかも語学も出来ず学力も無い者が情実の為にその選に当たった場合が多いと言うので同6年に文部省から九鬼隆一氏が留学生の状況視察に外国に派遣された結果、学業品行の思わしくない留学生が多数ある事が判明したので文部省では官費留学生を全員帰国させ、制度そのものも廃止した。ところが新文化の導入追行上明治8年に厳重な条件下に貸費留学生を派遣する制度を定め志願者を公募したが、条件を満たす応募者は一人も無かったので文部省は人物学業品行を考査し、当時の東京開成学校在学中の11名を選抜して海外留学を命じた。明治9年も同様に手続きが繰り返された上に矢張り東京開成学校在学中の10名が選抜され海外留学を命ぜられた。
<明治8年組>
  三浦(後鳩山)和夫・小村寿太郎・斉藤修一郎・菊池武夫(以上法学、米国へ)
  松井直吉・長谷川芳之助・(以上化学、米国へ)
  南部救吾・平井晴次郎・原口要・(以上工学、米国へ)
  古市公威(以上諸芸学、仏国へ)
  安藤清人(以上鉱山学、独逸へ)
<明治9年組>
  入江(後穂積)陳重・向坂兌・岡村輝彦(以上法学、英国へ)
  杉浦重剛・櫻井錠二(以上化学、英国へ)
  関谷清景・増田禮作・谷口直貞(以上工学、英国へ)
  沖野忠雄・山口半六(以上諸芸学、仏国へ)
以上二組の留学生は共に明治10年4月の東京大学創立以前に派遣されたので学士では無い。また留学期間は5年間であったがその後の文部省留学生は何れも卒業後1・2年から数年後を経た上で派遣され、また留学期間も3年以下となった様である。
横浜からサンフランシスコ経由英国へ
明治9年組留学生の10名は監督の正木退蔵氏に引率され米国経由で英国へ渡航した。
6月25日早朝、米国汽船会社のアラスカ号で横浜を出帆した。一行以外の乗船者には井上馨・同夫人と令嬢、日下善雄、曲木如長、天野湖二郎、佐々木長淳、図師民嘉の諸氏がおられた。
アラスカ号は2,000トン内外であったと思うが外輪蒸気船でありながら帆も備えていた。その当時はホノルルに寄港せずサンフランシスコに直航したが25日間を費やしている。即ち行程4,700海里とすれば1時間8海里弱の速度であった事が判る。<1カイリ=緯度1分の長さ=1,852メートル>
米国では大陸横断の汽車が開通<1869年>してからまだ数年しか経っていない時代であったが主要な都市には汽車連絡の便があった。我々一行はサンフランシスコからシカゴ、ナイアガラ、フィラデルフィヤ、ニューヨークの各地を巡遊した。
フィラデルフィヤでは当時開催中の米国独立百年記念万国博覧会を見物し、ロンドンに到着したのは偶然にも満18歳の誕生日の8月18日であった。


ロンドン大学に5年間留学
化学はウイリアムソン博士の指導を受け、物理はフォースタ、ロッジ両博士に学びその他地質学、鉱物学などの講義にも出席した。第1年末の化学の試験で、百数十名の受験者中一番で及第したのでその賞として金牌を授与された。その翌年には化学と物理学合同の競争試験でこれも一番で合格したので奨学金100ポンド(1年50ポンドあて2年間)を授与されたことは大変幸運であった。当時不足がちだった留学費(メキシコ$で1年分1000$であったが為替の関係で600円から800円位であったと思う)の補足として又研究費として非常に役立ったことを今も感謝している。
研究は直接ウイリアムソン先生指導の下で従事し、大したことも出来なっかたが留学中に2編の小論文を発表して、ロンドン化学会と英国学術協会総会とで報告した。又ロンドン化学会会員に選挙されたのも留学中であった

明治10年代ロンドン在留邦人事情  
明治9年頃の在留邦人は上野公使と二・三人の書記官・書記官補がおられ領事館に南領事と一人の書記生がおられた外は殆ど留学生だけで、郵船<日本郵船>、三井<三井物産>、正金<正金銀行>などもなかった。
我々一行の中、沖野・山口両君は直ちに仏国に渡られ、増田・谷口両君はグラスゴーに行かれ、又杉浦君は最初シレンスタに行かれ後マンチェスタに転向されたのでロンドンに留まっていた者は入江(後穂積)、向坂・岡村・関谷の四君と自分とであったが、以前からおられた人々の中には星亨、馬場辰猪、実吉安純、高木兼寛、長岡護美、伊賀陽太郎、佐双・佐仲諸氏などの外、井上十吉、小室某、小笠原某などの諸氏もおられた。そうして徳川公爵、原六郎、菊池大麓等の諸氏にロンドンでお遇いしたのは一・二年後の事であった。もっとも菊池氏は数年前からケムブリッジに留学しておられ、帰朝の都度しばしロンドンに滞在しておられたのである。又同時期に本願寺から派遣された南條文雄・笠原賢壽両氏はオックスフォードに在学中折々ロンドンに来られたので懇意になり、末松謙澄、増島六一郎、磯野計、石黒五十二等の諸氏もその中に来られてロンドンは次第に賑やかになった。
華やかなりしヴィクトリア朝文化
私の留学時期(1876年〜1881年)の英国はヴィクトリア女王陛下ご統治下の文化は輝かしいもので、世界の文化を指導したかの観があり、各方面に偉大な人物が傑出していた。政界にはビーコンスフィルド卿、グラッドストン翁の両雄あり、学界にはダーウィン、スペンサ、ティンドル、ハックスレ等あり、詩人にはテニソン、ブラウニング、文豪としてはラスキン、画家にはミレース、小説家としてはジョージ・エリオット、演劇界にはアーヴィングとエレン・テリありと云う様に当時の英国は実に偉観を呈したものである。
自分はこの偉観に幾分陶酔していたのかも知れないがこのような時代の英国にいて5年間を単に研究室と下宿屋とで過ごすことはいかにも惜しい、いや間違いではないかと思い、勉学の傍ら或いは議会に出かけてビーコンスフィルド卿、グラッドストンなどを傍聴し、またローヤル・アカデミーでターナ、ミレースなどを観賞し、ライシャムではアーヴィングとテリの芸に見とれて夜半を過ごしたことが幾度あったか知れない程である。また読書では少し堅い方ではスペンサを愛読し、柔らかい方ではテニスン、ディケンズ、ジョージ・エリオットなどに耽ったものである。そればかりか同窓の英国学生中に多くの親友が出来てその家庭に始終遊びに行き、晩餐や舞踏などに招かれて出かけ、夜半過ぎ或いは場合によると翌朝までも踊り続けたこともある。
以上の様なことは留学生の分に過ぎる振舞いであると非難する人があったかも知れない。然し偉大な英国文化の背後には慇懃で穏健な国民があり、礼儀作法が整然としてしかも団欒な家庭がある事を体得した自分には実に貴重で得難い修養であった。これ等の親友で今なお達者である者が四・五人は居て何れも80歳前後の老人であるが今日に至っても年に一回は必ず互いに通信している。そして自分が英国に出かける度ごとに旧友を泊りがけで訪れることになっているが、昔話に花が咲いて夜更しする事もあった。
英国留学中の出来事
最も記憶に残る出来事は露土戦争<ロシアとトルコ>の後始末に関して、英国民の世論は対露開戦論と非戦論との二派に分かれて議会の内外に渉り兢々と論議され、ビーコンスフィルドを首相とする時の保守党内閣は非戦論を主張し、グラッドストンを首領とする自由党は開戦論を主張して互いに譲らなっかたのであるが国民の多数はビ首相の「名誉ある平和」政策を支持し、しかもこの政策の背後には開戦の準備が完全に出来ていたのである。我国では到底考えられない所であるが、政府のこの政策が次の様な俗謡に作られて保守党ひいきの若い店員または職工や丁稚小僧に至る迄大勢が隊を組み、この俗謡を面白い調子で歌いながら毎夕市中を練り廻ったものである。今もその面白い調子は自分の耳底に残っている。
     We don't want to fight,
           But by jingo if we do,
           We have got the men,
           We have got the ship,
           We have got the money, too!

そこでいよいよ1878年にベルリンに於いて重大な国際会議が開かれることになって、英国からはビーコンスフィルド、ロシアからはゴルバチョフ、フランスからチェールと云う風に関係諸国から当時の首相が正使として参加し、またドイツからはビスマークが出席して議長となったので実に外交史を飾る豪傑揃いの会議であったのである。
英国とロシア間には果して大激論が戦わされたのであるが、その結果英国は遂に一兵も失わずしかも戦勝に依って得られた収穫よりも更に大きな収穫を得たのである。このようにしてビ卿が「名誉ある平和」の政策を完全に実現させ、ロンドンに凱旋したときの英国民の狂喜は実に空前と言われた程であって同国民の沈着振りを十分よく承知していた自分は彼等のこの狂態を目撃してただ呆れるばかりであった。